覚悟はいいか?オレはできてる

私はたまに、人に向かってえらそうなことを言う。

 「おまえ何か?そんなにえらいんか、おぉ?」と問われれば、「ごめんなさい、アホです」といわざるを得ない。正直そんなに賢くない。Twitterでも、たいていのばあいは、あまり考えずにつぶやいている。でも、ウィキやメールでの議論においては、できるだけ論理的であろうと思い、実行している。疑問を感じたら、よく考える。考えた末に言わざるを得ないと思ったら、書く。

「物事を明確に書き記したいときには、まず考えを明確にせよ。崇高なものを書くためには、まず崇高な心を手に入れよ」 ― ゲーテ

崇高とまではいかないが、十分に客観的か、論理に説得力はあるか、自己中心的になっていないか自問自答する。感情的になっている自覚があるときは一晩以上おく。空気は読まないが−−つまり漠然曖昧とした他人のイメージに自分の考えを左右されることはしないが−−これによってどういうことが起こるか、ポストする前には想像力を働かせる。でもあまり再帰的に考えすぎても動けないので、十分理性的だと思えたら、えいや、とボタンをおす。

「覚悟はいいか?オレはできてる」―ブチャラティ

なんぞこのブチャラティのカッコよさ!

  何を問われても、誠実に回答する覚悟があれば、どうにかなる。自分は正しいつもりでやっているが、自分の行為や言動について指摘されたら、常に理解しようと考えている。理解しても納得するかどうかは保証の限りではないが、間違っていたことを納得すれば、謝る気構えもある。他の人は優しいのかあきれているのか、あまり言ってくれないが(たぶん面倒くさいんだろう。自分も他人のことをとやかく言うなんて面倒だ)、後から考えなおすとおかしなことを書いていることは、ままある。そんなわけで勝手に恥はよくかく。

  以前は恥ずかしいのがいやでしょうがなかったが、行動しないよりずいぶんましだと考えられるようになってきた。批評家をできるほど賢くない者は、行動で示すしかないだろう。ぐずぐずすごすような贅沢な時間の使い方は、老後の楽しみにとっておこう。