断定すると傲慢な感じ?

いろいろ可能性があるのに、こうだ、と断定してしまうことには抵抗がある。

  あるよね?

  うん、あるある。

 「でもほら、こうも考えられるよね、もにょもにょ「いや、それは言い切り過ぎでしょ、ちがったらどうするの、むにゃむにゃ」考えるほどにいろいろ言いきれないことを思いつく。慎重なのはいいよ、うん。もちろん事前によく考えるべきだ。考えなしはいけない。それはときとして本当に罪つくりだ。

  それに、断定すると傲慢な感じがするかもしれない。他の可能性を否定する権利なんて誰にあるの?たしかに、自己中心的で視界が狭いと、傲慢かもしれないし、自分のために他を蹴落とせばまちがいなく傲慢だ。でも視野を広く持ち、いくつもの可能性を考えた上で、最善あるいは次善の結果のために選ぶなら、傲慢ではないと思いたい。

  何かをしたければ断定なくちゃいけないのです。それはあらゆる行動が具体的だからだ。具体的でない行動ってなんだ?挙動不審?棄権もありだけど、それでは物事は進まない。不確定な未来のことを断定するって、怖いことだ。でもそれが決断ってやつだ。敢えてスタンスを明確にすることで、足場をつくり、そこから踏み出していく。間違ったらやり直せば良い。止まっていては泥沼に沈んで緩慢にあるいは急速に朽ちていく。沈む前に足を出すんだ。

  決断しながらも謙虚であることだってできるはずだ。結果を自分のこととして、主体的に捉える覚悟をもつことだ。失敗したらちゃんとケツをもつ。及び腰でおそるおそるだと、余計に怖いんだよね。急斜面の山登りとかもそうだ。怖いからってへっぴり腰で登ると重心がぶれて危ない。まだ起こってもいない何かを怖れるのって、無駄です。希望を抱く。最悪を覚悟はしておく。しかし怖れない。

ジョルノ『覚悟とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開くことだッ!』

  こうですか?しかし、ジョジョおもしろいなー。第4部が一番好きかな。いや、ここは断定しよう。第4部が一番好きだッ!ジョルノには悪いが。

  科研費書きながらそんなことを考えた。それはそうと、科研費あたりますように。

責任って背負い込むってことではない

どこかで見たことのあるハナシだけど、日本語の責任って背負い込むような字面だ。自分で背負い込んで沈めばそれで決着するようなイメージ。でも英語だと responsibility つまり応答できることが責任の対訳だ。自分の行為にきちんと response することが責任ある行為と考える。日本語版は日本版ではない、もちろん日本文化版でもない。別に英語の解釈が正といいたいわけじゃない。国際的な対応が必要なら国際的に振る舞わなくてはならない。応答しないことで曖昧にして決着がついたと思うのは、通らない。

  なんだかA氏はすごく強固なバイアスがかかった信念をもっているように見える。でも、前述の通りそれはとても未熟な考え方だとeGは思う。できれば、今回のことが教訓となって、腰を落ち着けてレスポンスできるようになったら良いと願う。今回のことは結構失望したが、人は成長できるから絶望はしないでおく。

  さて、つらつらと書いてきたことが、絶対に正しいと言いはるつもりはない。自分自身で考えて判断してほしい。そして、eGがなんかおかしかったら訊いてください。自分は耳が痛くても批判を聴く。訊かれれば応える。

  あ、そうそう、ぱれるがぱらりぽめな、って一見ふざけた名前は、実はショウペンハウエルの名著「余録と補遺」Parerga und Paralipomena からパクインスパイアされている。「余録と補遺」は立派なものだけど、eGのは「余談と言残」みたいなもので、ろくなものではありません。かしこ。

白か黒か、ではない

つづき。ウィキメディアには「善意にとる」というガイドラインがある。見いださなくて良い悪意を見いだすな、ということだ。「好みだから」と「自分のやりかたでいくから」をこのガイドラインに従って考えてみる。たぶん、ちょっと画像が大きいな、こうした方がいいんじゃない?というような軽い気持ちだったんじゃないだろうか。それがリバートされて質問されたものだから、カチンときたのかびっくりしたのか、上記のような合理性を欠き、硬直した返答になった。最初の答えとしては、ちょっと画像が大きすぎなんじゃない?などと応えればそれでひとまず議論がかみ合ったはずなんだ。それが能力のせいか、感情に支配されたせいか、強いバイアスのせいか、言語化できなかった。そして修正を続けることが問題とも思っていなかったので、提案を無視して「自分のやりかたでいくから」と応えた。これはぜんぶ憶測。

  日本文化では曖昧が好まれる、なんてよくいう。そうであるところもあるし、実はそうでない部分もある。例えば宴会で「'''とりあえず'''瓶ビール5本'''くらい'''」とか、「ひどい風邪で3日'''ほど'''休みました」とか、敢えてぼかす。あと空気を読んで察する、なんていうのも曖昧な文化だ。はっきりものを言わないので、外国人はときとして疑心暗鬼になるらしい。実生活でそういうコメントを聴くことがある。にこにこしていて裏では何を考えているのかわからなくてフラストレーションを感じるんだそうだ。こういう以心伝心は便利だけど、日本文化内でしか通用しないところが大きい。

  他方、白か黒か、非常に極端に振れる部分もある。例えば、政治。内閣ができると最初は期待で持ち上げる。なんかちょっとだめだと思ったらこき下ろす。白か黒か。良いところを認め、悪いところを修正しようとすることができない。部分部分で判断ができない。これは文化として成熟していない面だと思う。こういう文化の違いでは、どっちが絶対的に正しいとかは言わない。でも、実際のところ他人は自分じゃない。いわなきゃわからないでしょ。社会でもホウレンソウってのがある。相談連絡報告。順番は逆だけど。

  で、白か黒か。自分の意見が通らなかったら、いっさい手を引く。jawpでもときどき見る行為だ。潔い?No, no, I think not. 議論の末だったらいいよ。議論して納得して、相手の方が良い意見だったから手を引くなら、潔い。でもそうじゃなかった。おもちゃが自分のものにならなかったから癇癪をおこした子供のようだった。eGはそれって、すごく問題だ、と思った。なぜって、こういうメンタリティなら、また同じことをするからだ。そして謝罪も撤回もしない、と拒絶する。誰も謝罪や撤回なんてもちだしてないのに。議論の先に謝罪や撤回を見いだすのはどういうことか?まず勝ち負けにこだわっている。そして建設的に考えることができてない。議論の先にある者は合意であって、謝罪とかじゃない。

看過できなかったこと

おさらい。jawiktでちょっとした編集合戦の前触れがあった。いちおう当事者をA氏とZ氏としよう。そこでのA氏の行為を看過できずにeGは口をはさんだ。A氏は応対したが、eGはそれに決定的な問題を見いだしたので、それを明示した。それは管理者以前に利用者全般で許されない行為だと思った。簡単に言うとそれだけのことだ。

  Z氏は一連の項目を編集してきていた。自分でフォーマットを作り、修正しながら、精力的にずっと。そこにA氏が2つの項目で様式の変更を行った。これは問題じゃないし、eGは優劣は特に判断していない。Z氏はよくない修正だと思ったようでリバートし、A氏に改変の理由を訊く。これもまあよくあること。問題は次、A氏の応えだ。「好みだから」

  これではまったく理由にならないのだが、そのことに気づいていないことが既に決定的な問題だと思った。A氏の「好み」が理由になるなら、Z氏の好みも同様だろう。これでは決着がつけられないことがわからなかったのだろうか。しかも再度リバートし、また再度リバートされる。次の応えはさらに悪い。話し合おうと言われているのに、「自分のやりかたでいくから」という。そしてリバート。これは強行の宣言でないとしたらなんなのだろうか。本当に強行したら荒らしなので、看過できずにここでコメントした。

  ここまででeGの解釈におかしい点はあるだろうか?あったら教えてほしい。

山羊の目

おーけー。jawiktの例の件が、eGの目にどのように映り、eGはどのように考えたか、時系列で書いておく。尋ねられたわけでもないけどね。その周辺の考察も含め、考えをまとめておきたかったのだ。

  6月に復帰してからは、スタンスをより明確にしているので、これまでよりともすると強すぎると受け取られることを言うことがある。これからもたぶんそうだ。引っ掻き回したい訳じゃないし、寛容でありたいけど、看過できない線は明確に示したい。なぁなぁでは成長しないところに来ていると考えているから、自分もプロジェクトも。以下に書くことが他人に納得してもらえなくても、それはその人の判断だからかまわない。でも意図は十分に理解してもらいたいと考えている。理解した上で判断してもらいたい。

覚悟はいいか?オレはできてる

私はたまに、人に向かってえらそうなことを言う。

 「おまえ何か?そんなにえらいんか、おぉ?」と問われれば、「ごめんなさい、アホです」といわざるを得ない。正直そんなに賢くない。Twitterでも、たいていのばあいは、あまり考えずにつぶやいている。でも、ウィキやメールでの議論においては、できるだけ論理的であろうと思い、実行している。疑問を感じたら、よく考える。考えた末に言わざるを得ないと思ったら、書く。

「物事を明確に書き記したいときには、まず考えを明確にせよ。崇高なものを書くためには、まず崇高な心を手に入れよ」 ― ゲーテ

崇高とまではいかないが、十分に客観的か、論理に説得力はあるか、自己中心的になっていないか自問自答する。感情的になっている自覚があるときは一晩以上おく。空気は読まないが−−つまり漠然曖昧とした他人のイメージに自分の考えを左右されることはしないが−−これによってどういうことが起こるか、ポストする前には想像力を働かせる。でもあまり再帰的に考えすぎても動けないので、十分理性的だと思えたら、えいや、とボタンをおす。

「覚悟はいいか?オレはできてる」―ブチャラティ

なんぞこのブチャラティのカッコよさ!

  何を問われても、誠実に回答する覚悟があれば、どうにかなる。自分は正しいつもりでやっているが、自分の行為や言動について指摘されたら、常に理解しようと考えている。理解しても納得するかどうかは保証の限りではないが、間違っていたことを納得すれば、謝る気構えもある。他の人は優しいのかあきれているのか、あまり言ってくれないが(たぶん面倒くさいんだろう。自分も他人のことをとやかく言うなんて面倒だ)、後から考えなおすとおかしなことを書いていることは、ままある。そんなわけで勝手に恥はよくかく。

  以前は恥ずかしいのがいやでしょうがなかったが、行動しないよりずいぶんましだと考えられるようになってきた。批評家をできるほど賢くない者は、行動で示すしかないだろう。ぐずぐずすごすような贅沢な時間の使い方は、老後の楽しみにとっておこう。

No logic, no responsibility

他者との関わりにおいて、つまりコミュニティーにおいては、自分の行った行為には、自分だけわかる曖昧な感覚ではなく、相手を納得させられるような論理で説明ができなければならない。国際的であれば尚更である。それができないことを no responsibility = 無責任という。ときおり無責任な対応を見るが、それを行う者は傲慢か無能のどちらか、あるいは両方である。いずれかがはっきりしない前段階として怠惰をおいてもいい。

  行動はなにがしかの論理に基づいているはずで、自分の行動について問われれば、その論理が理解されるように応えなければならない。応答した内容で相手や第三者が理解・納得するかどうか、考えていないようなら無能であり、説明を厭うなら傲慢である。無能には寛容になれるが、傲慢はやっかいである。なぜなら無能は諭すことができるが、傲慢は諭されることを拒否する性質であるからだ。碌な論理がたてられないなら、せめて謙虚であれ。